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10.現代社会と睡眠研究の問題点
 
 現代は睡眠の重要性が人類史上かつてなかったほどグローバルに認識されている時代である。睡眠は脳機能さらに身体諸機能を健常に保つために必要不可欠であり,生活の質を向上させるための基本となる役割を担っている。現代の高度技術化社会にあって,私たちは生産活動や経済利益を重視するあまり,睡眠を軽視し犠牲にしてきた。そこから大きな恩恵を受けたものの,同時に発生したさまざまな歪みのために深刻な睡眠障害が世界的に増加しつつある。睡眠軽視に起因する大事故も各地で頻発している。
 こうした事実を踏まえ,睡眠研究の科学的な成果にもとづいて,健康を維持するにはどのような生活パターンを構築すればよいか,どのような睡眠障害対策を実施すればよいか,という問題が年とともに重みを増している。質の高い健康な生活のためには睡眠を正しく理解し評価することが必要となっているのである。そして,高度技術を生産活動のためにのみ用いるのではなく,快適な睡眠の確保のためにも積極的に活用することが必要であるという発想がコンセンサスを得られるまでに至った。
 睡眠研究はいま,こうした時代の要請をふまえて,大きな飛躍の段階にさしかかっている。日本睡眠学会は1977年に創設されて以来,着実に発展してきた。1998年の時点で約700名の会員を擁するまでに成長し,毎年年6開催される定期学術集会はすでに23回に達している。
 国外でも多くの研究者が協力する国際的・学際的な研究ネットワークが急速に育ちつつある。1988年には世界睡眠学会連合 (World Federation of Sleep Research Societies, WFSRS) が結成された。これは,北米,ラテンアメリカ,ヨーロッパ,日本,オーストラリアなど地域的な睡眠関連諸学会を統一体として結合する機関である。現在 WFSRS の理事7名のうち2名を日本が占めている。WFSRS の大会は4年ごとに開催されることになっていて,第1回はフランス(1991年),第2回はバハマ(1995年),第3回はドイツ(1999年,図10)である。WFSRS はまた,1992年に睡眠研究の国際交流を推進するための研修共同体を組織化し,若手研究者の支援を開始している。これまで層の薄かった睡眠学の専門家ないし後継者を積極的に養成しようという狙いである。そのために世界各国から高い研究水準と実績をもつ睡眠研究室約40個所を選び,そこで若手研究者が研修を希望する際には往復旅費を支給するのである。未来を担うすぐれた研究者を養成することの重要性は,睡眠研究そのものの重要性と同じである。

図10 1999年10月にドレスデンで開催される世界睡眠学会連合の第3回大会のポスター

 わが国を除いて睡眠研究が比較的低調だったアジア地域にも,最近になって睡眠と睡眠障害に対する関心が急速に高まり,ここ数年間に中国,韓国,インド,香港,タイ,イスラエルで,自国の睡眠学会があいついで創設された。インドネシア,シンガポール,マレーシアなどでも準備活動が始まっている。その背景には,工業化に伴って睡眠環境が悪化しつつあることや睡眠習慣が先進工業国共通のパターンとなって,睡眠障害が激増していることが指摘されている。こうして1994年にはアジア睡眠学会 (Asian Sleep Research Society, ASRS) が結成された。ASRSの大会は3年ごとに開催されることになっていて,第1回は東京(日本睡眠学会の定期学術集会と合同して1994年),第2回はエルサレム(イスラエル睡眠医学会の大会と合同して1997年),第3回はバンコク(タイ睡眠学会の大会と合同して2000年)である。
 日本睡眠学会はその充実への歩みのなかで,1994年にみずから編集したB5版600ページの専門書『睡眠学ハンドブック』を出版した。一国の睡眠学会が総力をあげて,このような権威ある学術図書を出版したのは類例のない快挙であり,わが国のみならず世界の睡眠研究史のなかでも画期的なことである。この本はたいへん時宜を得た有意義なものとして歓迎された。睡眠は脳科学の一分野としても健康問題としてもひろく社会的な関心を呼ぶ対象ではあるが,このような大部で高価な専門書が大方の好評を博し,初版を10か月で完売したというのは異例とのことである。睡眠に対する社会の関心の高さが,ここからも窺うことができよう。現在第2版の編集作業がすすめられつつある。日本睡眠学会はまた,1994年に公的な事業として同学会の診断分類委員会の翻訳になる『睡眠障害国際分類―診断とコードの手引き』を刊行した。本書は,最近改定された睡眠障害の国際分類を詳細に記述したもので,臨床家にとって有用な手引きとなるものである。原書はアメリカ睡眠障害学会が中心となり世界各国の専門家が協力してまとめた労作である。
 このような活況をみると,睡眠研究の未来は実り多いものになることであろう。ところが残念なことに,睡眠および睡眠障害に対する研究体制は,機構面でも研究費の面でも,ほとんど整備されていない。現在のところわが国では,睡眠研究を実施する公認の研究機関や研究費が著しく欠如しているのである。また,睡眠研究を志す若い世代が現在しだいに増えつつあるが,わが国の大学には彼らを教育するための学部レベルの学科や講座がない。また,大学院で睡眠学を専攻して学位を得ても,将来研究を発展させることのできる就職口がない。このような現状では,過去10年間にわたって世界に先導的な研究活動を維持してきたわが国の睡眠研究の未来は,必ずしも楽観を許さない。もはや,これまでのように個々の研究者が自己の興味で研究を発展させてきたような規模では,社会の要請に対応できないのである。国家レベルでの早急な対策が望まれる。
 このような機運にあって,アメリカ合衆国は,いちはやく1989年に睡眠障害研究国家委員会を設立し,「アメリカよ,目覚めよ!」という国家事業を発足させている。この委員会の試算によれば,眠気に起因する事故だけでも,経済的な損失として見積ると1988年度の場合430ないし560億ドルに相当するという。
 近い将来に予測される睡眠科学および睡眠医学の学術的・社会的ニーズに対処するためには,わが国に睡眠研究のための公的機関を早急に創設すべきこと,睡眠研究を担う優秀な人材を充分かつ公的に養成すべきことが要望される。さもないと,来たるべき21世紀に生じる睡眠関連の諸問題に的確に対処できなくなり,国民に著しい損失をもたらす結果を招くことになるであろう。

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