睡眠について

社会と睡眠:兼板佳孝

1. 睡眠は様々な社会的要因からの影響を受ける

 ひとり一人の人間が集まって社会を形成している。その社会のなかで人々は生活をしているのであるが、ヒトの睡眠は、労働、学業、メディア、住環境など、様々な社会的な要因からの影響を受ける。その中でも労働は、最も強くヒトの睡眠に影響を及ぼす社会的要因といえる。労働する時間が長くなればなるほど、睡眠に充てることができる時間は短くなる。また、過重な長時間労働では、高ストレス状態やうつ病を惹起しやすく、これらの病態ではなかなか寝つけない、あるいは、眠っても目が覚めてしまうといった不眠症状がしばしば現れる。加えて、交替制勤務に従事する労働者では、就業するタイミングが変化するために、睡眠-覚醒リズムも変調しやすい。このように労働に関係する要因は、ヒトの睡眠に強く影響する。

 労働と同様に生徒や学生の学業もヒトの睡眠に大きな影響を及ぼす。近年では、大学受験や高校受験に加えて、中学校受験、さらには小学校受験が盛んになっており、学校の正課以外に学習塾で勉強する人も増加している。そのような状況では、子ども(幼児、児童、生徒)の睡眠を守るための方策を今まで以上に考えていく必要がある。

 現代社会においてはテレビの深夜番組、インターネット、インターネット配信による動画など、様々なメディアが利用されている。これらのメディアの夜間の使用は、就寝時刻を遅くさせたり、不眠を誘発させたりするなど、ヒトの睡眠に大きな影響を及ぼす。

 コロナ禍でステイホームや在宅勤務が盛んに行われた時期には、国民の睡眠時間は以前に比べて長くなる傾向が認められた。このことも社会的要因が睡眠に影響を及ぼすことを示す具体的な例と言えるだろう。さらには、ウクライナとロシアの国家間の紛争による戦時下では、その地域で暮らす人々の安寧な睡眠が脅かされることも容易に想像することができる。以上に述べたとおり、社会的な要因はヒトの睡眠に強い影響を及ぼすものであり、国民の睡眠の確保に向けての施策を検討する際には、これらについて無視することはできない。社会情勢が変化するスピードは著しく早いため、状況を俊敏に捉えて国民の睡眠を守るための策を講じていくことが重要である。

2. 睡眠の問題は様々な社会問題を惹起する

 短い睡眠時間や不眠などの睡眠の問題は、肥満、糖尿病、高血圧などの生活習慣病の発症と密接に関連していることが知られている。また、これらの生活習慣病の組み合わせにより構成されるメタボリックシンドロームについても、不眠を有していると発症リスクが高まることが報告されている。これらの生活習慣病は、虚血性心疾患や動脈硬化の危険因子でもあり、心臓疾患や脳血管疾患の発症を促進する。身体疾患のみならず、精神疾患も睡眠の問題から誘発されることが知られている。睡眠が発症に影響を及ぼす精神疾患として重要なもののひとつは、うつ病である。うつ病患者では、ほぼ必発といって良いほどの高頻度で不眠が出現する。一方で、不眠が、うつ病の発生のリスクを高めることも指摘されている。つまり、うつ病と不眠は、お互いに原因にも結果にも成り得る関係なのである。不眠は、うつ病治療の経過でのなかで最後まで残る症状になりやすいことが知られており、患者の社会復帰への障害となることがある。また、不眠は、うつ病の再発にも関連していることが報告されている。うつ病の病気のいずれの時期にも不眠は出現する可能性があり、不眠はうつ病のリスクファクター、初発症状、併存症状、残存症状のいずれにもなり得る。1次予防の観点からはリスクファクター、2次予防では初発症状、3次予防では併存症状や残存症状への対策が重要となるのであるが、不眠はうつ病の1次から3次予防のすべてのレベルにおいて重要な病態といえる。こうした不眠とうつ病の密接な関係を知っておくことが重要である。

 夜間の睡眠の問題は、日中の眠気や集中力の低下につながり、その結果として、交通事故や産業事故を誘発する。日本で実施された疫学研究から、睡眠呼吸障害では交通事故のリスクが増えることが指摘されている。システマティックレビューによっても短い睡眠時間や不眠などの睡眠の問題を抱えている人はそうでない人に比べて1.62倍労働災害を生じやすいことが報告されている。これらの研究は、睡眠と事故の発生との関連性を強く示唆するものであり、現代社会では、睡眠の問題に対して適切に対応していくことは、事故防止の観点から極めて重要であるといえる。

 睡眠の問題が、様々な身体・精神疾患の発症に寄与することを考慮すると、この問題が国民医療費に及ぼす影響は極めて大きいといえる。また、睡眠の問題は、産業事故や交通事故を誘発することによって社会経済に負の効果をもたらす。さらには、睡眠の問題は労働生産性の低下ももたらすことが知られており、これらが与える経済損失は計り知れない。

3. 睡眠を確保するための対策と睡眠公衆衛生

 睡眠に関わる公衆衛生活動を睡眠公衆衛生と呼ぶが、この理念から、予防医学の概念に基づいた対策を以下に整理する。1次予防は、リスクファクターを知り、これに対する策を講じることなどによって疾病への罹患を防ぐことを目的とするが、この活動には睡眠の自己測定と自己管理、集団的な保健教育や個別的な保健指導などが含まれる。2次予防は、早期発見を行って、疾病の重症化を防ぐことを目指すものであるが、この活動には法令に基づいた健康診断での問診や職場でのストレスチェックなどが含まれる。最近、一部の企業などで試みられている睡眠検診もこの範疇に入る。3次予防は、医療や機能訓練等にとって社会復帰を果たすことなどを目標とするが、これには睡眠医療が相当する。

 睡眠の問題は、先進国社会において重要な社会問題となっている。今後は国家レベルの睡眠に関する対策が、より一層推進されることが重要である。国民の睡眠を確保する方策は、一人ひとりの個人の努力と、社会的な取り組みの二つに大別される。個人で実施できることは、生活習慣の見直しや睡眠環境の調整などである。これについては、他のセクションで解説されているのでご参照頂きたい。また、厚生労働省から最近公表された「健康づくりのための睡眠ガイド」にも詳しく紹介されているのでご一読頂きたい。社会的な取り組みというのは、行政、企業、学校などの組織単位で実施されることが期待されるものである。他の生活習慣に比べて睡眠は社会的要因からの影響を受けやすいため、個人レベルの行動変容のみでは改善できないことがしばしばある。行政、企業、学校などが国民の睡眠を守るために担うべき事項もあり、社会全体が睡眠の重要性を認識するような、いわゆる社会変容とも呼ぶべき変化が必要である。これらの点を踏まえた上で、睡眠公衆衛生がより一層推進されることが期待される。